【全国制覇】第38回全国高等学校野球選手権大会:【エピローグ】富樫淳と甲子園|龍谷大平安硬式野球部応援サイト ~ALL 平安~ 目指せ全国制覇!!

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【エピローグ】富樫淳と甲子園
全国制覇【特別記事】:第38回全国高等学校野球選手権大会

【エピローグ】富樫淳と甲子園


~14ぶりに雪辱果たした甲子園~
龍谷大平安硬式野球部応援サイト1941年-1946年の4年間、戦争による中断があった。
しかし、1942年「戦意高揚」を目的として文部省が主体となり、中等学校野球選手権が甲子園球場で開催されていた。
この年の大会の主催が「全国中等学校野球連盟と朝日新聞社」ではなく「文部省(現、文部科学省)」が主催だった為に正式な歴史としては数えられず“幻の甲子園”と呼ばれている。
この幻の甲子園に出場した平安中のエースが富樫淳。
当時は、惜しくも決勝で徳島商に敗れ準優勝に終わったが、あれから14年、富樫は監督として甲子園に戻り、見事雪辱を果たした。


富樫監督が優勝を果たした心境を、到底思い知ることは出来ませんが、
幻の甲子園~戦時下の甲子園と富樫淳~を一読ください。
球児、富樫淳に触れると、今大会の優勝もまた違ったふうに見えてくると思います。

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「来年度を見ていて下さい。」1955年の大会前、富樫が前任の大原監督よりチームを引継いだ時こう語った。

選手の名前と顔が合致せず、個々の性質、技量も測れぬまま1955年夏季大会を迎えた。
それでも、富樫はチームを決勝へと導く。惜しくも決勝では敗退するも、その采配ぶりは賞賛された。

それから1年、富樫イズムがチームに根ざし、平安野球は名うての試合巧者ぶりを発揮し始める。選手も監督の意図を理解し、サインミスなど全然なく監督の意図するチームが出来上がっていった。


第38回選手権大会、富樫監督と平安ナイン
こうしたチームが出来上がるまでの道のりは、当然平坦なものではなかった。
そこには選手対監督の真剣勝負があった。
猛将富樫の猛練習に選手は耐え、また人目につかないところでも練習に汗を流した。
エース岩井は春以降グンと腕を上げ、スライダーをマスターしピッチングの幅を広げた。
打線は、サンドバッグ叩きでスイングが鋭くなり、どこからでも点が取れる切れ目のない打線が出来上がった。

こうして全国制覇を掴むチームが出来上がったのだが、この年の平安は以外にも京滋大会から苦戦の連続であった。
1回戦vs洛東7-0(7回コールド)
2回戦vs福知山11-0(6回コールド)
ここまでは順当に勝ち進むが3回戦vs洛陽戦で苦戦を余儀なくされる。
平安 001 000 022 = 5
洛陽 000 101 200 = 4
1-4とリードされて迎えた8、9回に大逆転での勝利。

準々決勝vs同志社戦は3-1と僅差をものにし、準決勝vs堀川戦もまた苦戦。
平安 000 010 006 = 7
堀川 100 100 000 = 2
1-2とリードされての最終回に一挙6点を挙げての勝利に、朝日新聞の見出しも『平安、また逆転』と題された。

これだけではない。京滋代表選でも苦しいシーソーゲームとなった。
膳所 000 012 010 = 4
平安 000 021 02x = 5

第33回全国高等学校野球選手権大会【全国制覇】の時は、京滋予選を圧勝しての全国制覇であったが、三度目の全国制覇は苦難の連続だったのである。


~富樫監督、男泣き~
九回表、岐阜商最後の攻撃、二死走者一塁、打者は5番長屋。
カウント2-2から岩井はウィニングボールを外角低めに投じた。
長屋はそのボールを空振り三振。
一瞬、静まり返った場内がドッと湧いた。
試合終了のサイレンが甲子園に鳴り渡る・・・・。

”勝った!勝った!”
炎天下の甲子園球場に京滋代表、平安が昭和13年・昭和26年に続いて3度目の栄冠を獲得した。
富樫監督と風間部長がベンチに飛び上がり、”やった”とばかりに握手を交わす。
選手たちも健闘した岩井を囲み”よかった、よかった”と奮闘を称えあう。

それとばかりに取り囲むカメラマンや記者の群れで、選手も富樫監督ももみくちゃの中”おめでとう、おめでとう”と優勝を祝う言葉。

一塁側スタンドに陣取った平安応援団もただワァワァと狂喜乱舞。
日の丸の小旗を打ち振り、花吹雪が乱れ飛ぶ。

富樫監督の顔からひと筋、ふた筋と流れる涙。
記者の質問にも答えられない有様。

今度はしっかり記録に残った、”全国制覇”


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