【全国制覇】第86回選抜高校野球大会:【エピローグ】名門を託された原田監督|龍谷大平安硬式野球部応援サイト ~ALL 平安~ 目指せ全国制覇!!
2・【1回戦】vs 大島(鹿児島)
3・【2回戦】vs 八戸学院光星(青森)
4・【準々決勝】vs 桐生第一(群馬)
5・【準決勝】vs 佐野日大(栃木)
6・【決勝】vs履正社(大阪)
7・【エピローグ】名門を託された原田監督
8・【センバツ優勝までの戦績・大会総評・通算成績】
9・【写真集1】
10・【写真集2】
11・【写真集3】
第86回選抜高校野球大会 【エピローグ】名門を託された原田監督
指揮官の熱意で名門復活
『優勝したら絶対に涙が枯れるまで泣くと思ってましたが、そうでもなかった(笑)。どこかファン目線で見ていたんです。歓喜に沸くアルプスの中に自分も一緒に入って喜びたかった。これまで平安野球部を支援して下さった卒業生、OB、ファンの方々に対して心から感謝したい。ホンマに有難う』
センバツ初優勝を決め校歌斉唱後アルプスに一礼するやスタンドのファン、自らが手塩に掛けたナインと共に万歳三唱、そして夢にまで見た甲子園で三度宙に舞った原田英彦監督53才。
生来の平安ファン、平安愛を公言する就任22年目の熱き闘将である。
甲子園に出場すること全国最多の69回。春32勝37敗、夏59勝29敗。
1907年金亀教校として設立され1908年に平安中学校に改称。野球部は27年夏の初出場を皮切りに春37回、夏32回出場。春夏通算91勝66敗1引分。優勝3回、準優勝4回。38年夏に初の全国制覇したあと51年、56年にも優勝を果たし強豪、名門として名を馳せた。
その後は出場こそ重ねるものの、低迷期が訪れ76~78年まで選手だった原田が93年監督に就任。
母校の監督に就任した原田は『愕然とした。ここまで落ちたかと・・・。誰がここまでしたんだと腹立たしくすらなりました』
グラウンドに入る姿勢から、キャッチボールの仕方、道具の手入れに至るまで課題を挙げたら61個あった。
子供の頃からの平安ファンだった原田には我慢出来なかった。
問題点を指摘し、一つ一つ潰していく地道な作業。特に意識したのが、基礎の練習だった。
「綱なしグラブ」を用い、手のひらで捕球する感覚を覚え込ませ、伝統の堅守を教えこんだ。
苦労が徐々に実り、96年には春季近畿大会で優勝、翌年97年夏には左腕・川口知哉投手を擁し甲子園で準優勝と復活を見せる。
だが”全国の頂点”までは以後17年を擁した。
98年以降は春夏で9回甲子園に乗り込むも2勝が5回(8強4回)、1勝が1回、初戦敗退が4回の9勝9敗。
‘名門’‘伝統’‘強豪’と誉高かった「HEIAN」の完全復活とはならず、平均的な一甲子園出場校に落ち着いてしまっていた。
2013年が大転換する切っ掛けの年だった。
センバツに乗り込み早実(東京)との伝統校同士の初対決は、中盤までリードするも名門平安らしくないエラーが生じて逆転負け。
スタンドからは「監督辞めろ」と心ないヤジが飛んだ。
「あれがこのチームの原点です」と原田監督。
ヤジを間近で聞いていた当時2年の河合も「悔しかった。あの負けがあったからここまで強くなれた」と、雪辱への思いが「日本一」を掲げるチームの原動力となった。
2013年、再起を期した夏の京都大会。
準々決勝で京都翔英相手に打線が振るわず完敗。
夏甲子園の放送席でゲスト解説を務めた原田監督は、”ここ(甲子園)で勝てる平安”を目指し新チームに着手する。
2012年、醍醐に新設された”平安ボールパーク”のにも「全国制覇」のプレートを設置。指揮官の「お前たちの色はなんだ」の質問に。ほとんどの選手が”バッティング”と答えた。
この選手の言葉に、原田は”打つチーム”を目指し、‘甲子園に出ても1勝’の平安を内面から一掃し、有言実行あるのみで猛練習。
辛い練習の甲斐あって、秋季京都大会を1位通過。近畿大会でも他府県強豪校をねじ伏せ、左腕・服部大輔投手を擁して以来11年ぶりの秋季近畿大会優勝。近畿代表として神宮大会に出場した。
2014年1月24日、近畿トップ当選で2年連続センバツ出場の吉報が届いた。
京都に平安あり!待ちわびた優勝旗が京都へ
センバツ大会の優勝は平安のみが待ち望んでいたわけではない。
センバツ制覇が京都一商以来66年ぶり2度目、無論平成の世になって以降初である。
夏を含めても平安が最後に優勝を飾って以来58年ぶりの日本一奪還という超久々の快挙。
京都勢は甲子園で苦難の時代が続いている。2009年春から13年夏までの5年間春夏10季で勝利を挙げたのは平安と福知山成美が各々1勝を挙げたのみ。
投打にバランスのいい京都勢は、毎回好試合を演じ大敗は少ないものの、劣勢を挽回する破壊力に欠け相手に押し切られてしまう。。。そんな一種のイメージが付きまとっていた。
『常に平安が他校を引っ張らないと京都は強くならない』と名門の完全復活に取り組み、母校に初の紫紺の大旗をもたらした原田監督。
伝統の堅守、息も憑かせぬ積極果敢な走塁、上下位とも一発長打を秘める強力打線、四者四様の個性を最大限に生かしたカルテット投手陣。。。色鮮やかに咲かせた満開の大輪の桜花は‘HEIAN’時代到来の序章。
春風に輝くピンクを黄色(向日葵)へと変えてゆくのも至極当然。
京都の、原田平安野球の使命である‥☆
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