幻の甲子園:エピローグ&写真集 |龍谷大平安硬式野球部応援サイト ~ALL 平安~ 目指せ全国制覇!!
幻の甲子園
~大会屈指の剛速球投手 冨樫淳~
この大会で屈指の剛速球投手と注目されたのが平安中の冨樫淳。
初戦は大阪の名門、市岡中学をノーヒット・ノーランに抑えた。
しかしその後は肩の故障で苦戦を余儀なくされる。
「戦士を交代してはならない」というルールの為だった。
優勝戦まで進んだ平安富樫、最後は延長戦の末徳島商業に敗れた。
富樫の好投も徳商の優勝も球史に残されていない。
そして戦局の悪化にともない「文部省主催」の体育大会も中止。
「幻の甲子園」に出場した多くの選手たちも戦地に赴く事になった。
昭和十七年の夏 幻の甲子園
―戦時下の球児たち―
早坂 隆著
どれだけの球児が「もう一度、野球をやりたい」という思いで戦地へ赴いたのか。
その夢もかなえられずに戦死された方も多い。
「幻の甲子園」大会で準優勝となった平安中は戦後の第38回選手権大会(昭和31年)に三度目の全国制覇を果たす。
選手たちに胴上げされた若き監督は「幻の甲子園」大会の剛速球投手、紛れもなく我が平安OB富樫淳であった。
この大会のみ伝説のユニフォームである「安 平」が使われ事は承知の通り。
今となってはまさに富樫淳は銀幕のスター、そして映画の中の様な出来事だった。
写真左:平安中卒業後にプロ野球大阪タイガース(1946-1950)に進んだ富樫淳
写真右:平安中vs徳島商の決勝戦で使用されたウイニングボールが2011年8月、実に69年ぶりに徳島商から甲子園に戻り期間限定で甲子園歴史館で展示された。
ボールには「昭和十七年全國優勝記念」に加え、「和」と記されている。
この大会で徳島商が県勢として初めての全国制覇を成し遂げた。
しかし、徳島商のこの優勝は公式記録に残っていない。
ただ、優勝した証として1枚の賞状だけが渡された。
この賞状は、昭和20年(1945)の徳島大空襲で焼失しその後、昭和52年(1977)に改めて文部省(現、文部科学省)から賞状と優勝盾が贈られている。
しかし、徳島商のこの優勝は公式記録に残っていない。
ただ、優勝した証として1枚の賞状だけが渡された。
この賞状は、昭和20年(1945)の徳島大空襲で焼失しその後、昭和52年(1977)に改めて文部省(現、文部科学省)から賞状と優勝盾が贈られている。
幻の甲子園:写真集
幻の甲子園に出場した平安ナイン |
開会式の様子 | |
開会式の様子 |
試合の様子 |
閉会式の様子 |