12・14代 木村(西村)進一 |龍谷大平安硬式野球部応援サイト ~ALL 平安~ 目指せ全国制覇!!

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12・14代 木村(西村)進一


龍谷大平安硬式野球部応援サイト1919年12月30日生。京都府出身。
平安野球部に入部し1938年に選手として全国制覇。
太平洋戦争末期の1945年3月、南太平洋の島で右手首を失った。
その後手首を失うも1951年には義手にて春夏6度の甲子園出場を果たし監督としても全国制覇を成し遂げる。
卒業後は立命館大学へ進学。
義手にボールを乗せ、左手1本でノックする熱血指導で知られた。
伝説の平安野球部OBである。

写真:義手の右手と左手を巧みに使いノックを上げる西村氏(全国高等学校野球選手権大会70年史より)

◇戦後不景気の中、府民に勇気
(1951年2度目の全国制覇時の木村監督下、優勝メンバーの一人右翼手小口菊男さんの談話)

1951年8月19日。京都の町は歓喜の渦に包まれていた。敗戦後の不景気が続く中、府民を勇気づけたのは平安の2度目の全国制覇だった。市内は人垣で市電も立ち往生。選手を乗せた車は握手を求める子供や女性で取り囲まれた。

「平安ナインが市役所に入場するとファンが僕らを一目見ようと大挙してバルコニーに登ってね。天井が抜け落ちてしまった。市長にはレストランで食事をごちそうになったよ。当時は食糧難だったから感動した。誇らしかったな」。

甲子園優勝の背景には、戦後の「平安復活」にかける監督と選手たちの深いきずながあった。

「西村監督は往年のプロ野球選手だった。でも僕が出会った時にはプロでならした右手首はなかった」。

後に「隻腕監督」と呼ばれた西村進一監督。選手時代に平安初の全国制覇を遂げ、卒業後は現日ハムでプロとして3年間活躍するが、太平洋戦争で召集。南太平洋のニューブリテン島で右手首を失う。プロをあきらめ、1948年、母校平安高の監督に就任した。

「西村監督は左腕一本だけで球を外野まで飛ばし、全力でスライディングをしては、何度も僕らに檄(げき)を飛ばした。『片腕しかないおれがここまでできるんだ。お前たちになら絶対できるぞ』ってね。練習はとにかく厳しかった。日没までノック、日が沈むと西本願寺を何周も走らされた。
でも監督は僕らに負けないくらい練習しておられた。僕たちの練習後、義手をはめて1人でネットに向かっている姿を何度も見たよ。僕らは皆、監督の姿に心を打たれていたんだ。言葉なんていらなかった。自然に『強豪・平安を復活させるぞ。甲子園に行って優勝するんや』という気持ちで一つになっていた」。

そして迎えた1951年夏の予選大会。平安はとにかく強かった。決勝までの6試合をすべてシャットアウトしたのだ。

「春のセンバツでは1回戦で敗退して悔しい思いをしたから、夏に向けて猛烈に練習したんだ。
それでも全国制覇は簡単ではなかった。思い出深いのは“快童”と呼ばれた中西太のいた高松一(香川)との準決勝だ。九回表まで4点リードしながら、その裏で彼に1点差まで追い上げられた。事実上の決勝戦。打球のすごさに最後まで息が抜けなかったよ」。

最大の強敵を倒した平安は決勝で熊谷(埼玉)と対戦し7-4の快勝。2度目の全国制覇を果たした。

「勝敗はいつも紙一重なんや。僕は平安で何があろうと最後まであきらめない精神を学んだ。平安野球部のことは一時も頭から離れることはない。生きていく自信のようなものだ」。

こうして「強豪・平安」が復活した。
以後、「京都に平安あり」とうたわれる黄金時代に突入する。
なお、1947年4月の学制改革で6・3・3制がスタートし、平安は旧姓の平安中学から平安高校へと名称変更した。

<記事:毎日新聞より>