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竹清 剛治(たけきよ こうじ)


龍谷大平安硬式野球部応援サイト竹清剛治(TAKEKIYO KOUJI)
東京都目黒区在住 株式会社 ONZE代表取締役
現在は1女のお父さん
1974年11月22日生まれ 大阪府高槻市出身
平安高校時代の恩師は北村監督

摂津シニア~平安高校硬式野球部(1992-1994)
~三菱自動車京都(1994-1997)
~千葉ロッテマリーンズ(1997-2002)
~中国ホープスターズ(2006)
~台湾興農ブルズ(2006)

写真:高校(平安)~プロ野球時代(ロッテ)の写真(竹清氏寄贈)


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~夢は高校野球の指導者~
1992年卒業 竹清剛治さん

-----------こんにちは!今日は竹清さんのこれまでの貴重な野球人生、野球観、そして今後の夢など交えてお聞かせ下さい!宜しくお願いします!
竹清さん:
こちらこそ!
現役を引退してから20キロ増えました(笑)今90キロです。

---------京都には戻られていますか?
竹清さん:
全く帰っていません。昨年久々に娘を連れて清水寺に行った位です(笑)

---------まずは母校の選抜甲子園優勝おめでとうございます!ご覧なられていましたか!?
竹清さん:
龍谷大平安硬式野球部応援サイト もちろんテレビで全試合見ていました。嬉しかったですね。
バッティング凄いですね。初戦をみて優勝すると思いました。
今も母校の夏の大会ももちろん気になりますし毎試合結果も確認しています。
僕の時代は平安の低迷末期、千葉ロッテ入団時も同期のドラフト4位の高卒の子からは「平安ってどこですか?」こんな時代でした。そんなこともあり全国優勝、復活は本当に嬉しかったです。

---------野球をはじめたきっかけを教えて下さい!
竹清さん:
野球は阪神の掛布さんに憧れ3歳からはじめました。
少年野球には小学3年生の頃に入りましたね。

--------平安へ進まれたきっかけは?
竹清さん:
中学時代に摂津シニアに在籍していたのですがそこから毎年2人平安に行っていましたのでその流れで僕と同僚の友末が進みました。
平安の僕の2つ上の先輩(現日星高校甲子園にも出場した平安OB山中始之監督の時代)、夏の甲子園にも出場されショートを守っていた友広さんが小学校からの先輩だったこともあり友広さんを追っかけていた事もありましたね。
平安ファンの方には怒られますが当時は平安がどういう高校か知らなかったです。 入学後直ぐに野球が嫌になり高1の夏から冬まで休部していました。

----------練習が大変だったのですか!?
竹清さん:
練習がきついというより遊びの方が楽しくなってしまい(笑)
授業が終わり亀岡(グランド)行きのバスが正門に止まっているので・・裏門から帰っていましたね(笑)

-----------高校時代を振り返ってどうでしたか!?
竹清さん:
入学時はセレクションと一般含め当時でも80名。でも3日で40人は辞め、卒業まで残っていたのは35人でした。
入学してから高校2年まではショートでした。

-------------投手をされたきっかけは?
竹清さん:
龍谷大平安硬式野球部応援サイト 2年生の時、3年生主体のメンバーは決まっていましたので、それ以外の選手はボール拾いやバッピ(バッティングピッチャー)などのお手伝いをしていました。
でもアップだけは全員一緒にやっていたんです。
アップ後は直ぐにバッティング練習がはじまるので、バッピを担当する2年生だけは先に各自アップでした。それで僕は全員アップが嫌だったので各自アップの出来るバッピを希望していた訳です(笑)
そんなことも逆に幸いし当時の恩師北村監督から「お前ピッチャーしてみろ」と声がかかったことがきっかっけとなり投手に転向しました。勘のいい恩師でしたね。
2年生の秋に11番を貰い公式戦に登板しました。3年生春に1番を貰いましたが夏は岡野が1番でした。
龍谷大平安硬式野球部応援サイト 当時は自分が一番と思っていましたし「あいつが投げて打たれるのなら俺が投げる」そんな気持ちでした。プロにも行きたいのではなく小さい頃から行くものだと思っていました。
プロへは高校の時一度諦めましたが、投手転向してから「行けるな」と思いはじめ、それからは頑張りました。
当時も今と同じく寮はありましたが、僕は阪急電車で通っていました。

-------------当時の練習はどうでしたか!?
竹清さん:
とにかく当時も練習は半端じゃなかったです。
学校の校舎4階まで毎日50往復とか亀岡の冬場もかなり走りこみました。
今は食べ物や指導者もよくなりましたが、速球は当時MAX140、社会人時代はMAX151まで伸びました。

------------1994年竹清さんのラストサマーのことをお聞きしたいです!
※あの当時は竹清さんの他に岡野さん友末さんと新聞でも「平安三羽ガラス」と称され「投打にがっちり平安」などなど久々に大きく取り上げられていました。最後の夏は惜しくも京都大会準々決勝で左腕金投手を擁する卯瀧監督の北嵯峨高校に1-3で敗れました。

竹清さん:
まず当時の僕の世代のメンバーは本当に充実していました。
全国優勝、世界大会でも優勝した京都田辺(田辺ボーイズ)からごっそり10人も入部し、先輩もこの時代で全国制覇出来なかったら、もうこの先無理と言われた程でした。
練習試合でも、上宮などあの年に甲子園に出た高校にも全て完封し勝っていました。
最後の夏も僕と岡野、友末と投手力はもちろん打力も十分ありました。
準々決勝まで岡野、友末と合わせても3試合で打たれたヒットは僅か3本でしたし、チーム打率も5割を超えていましたね。

【写真クリック拡大】
敗退した北嵯峨戦は僕が先発、7回を投げ2失点でしたがいずれもエラー、3点目も岡野が取られましたがそれもワイルドピッチ。結果論ですがもったいない試合でした。
負けるイメージは全く無かった。たまたま穴に填ってしまった試合が、準々決勝の北嵯峨戦であって、普通に戦っていればコールドで勝てる位の力があったのではないでしょうか(笑)
最後の負けた北嵯峨戦は、やはり各シュチエーション鮮明に記憶に残っていますね。
前の試合が延長で1時間程ずれ込んだのですが、とにかく暑い西京極でしたね。
高校時代は甲子園に出ることが目標でした。
プロで長くやれなかったのも、4年目で右肩の手術もありましたが、目標がプロになること・・目標設定が高くなかった事もあったのかもしれませんね(笑)
その後、岡野と友末は就職希望でしたが、僕はドラフトにかかればプロに行きたいなと思っていました。
★第74回全国高校野球選手権京都大会【1992年(平成4年)】

---------------社会人時代三菱自動車京都時代は?
竹清さん:
龍谷大平安硬式野球部応援サイト 結局社会人に進みました。
4年間在籍し毎日仕事と練習の両立で8時~12時までは仕事、13時~17時までは練習をしていました。
当時はまだ景気も良く、社会人野球だけで200チームを超えていて、三菱だけでも沢山ありました。
一番大事な3年目の秋、そこで活躍してプロに行くイメージをしていたのですが、日本選手権の開会式の前日に盲腸になり出場が出来ませんでした。
幸いその年の日本選手権は僕抜きでも準優勝でしたね(笑)
でも次の年は頑張りましたよ(笑)
当時は金属バットでしたし、1試合にホームラン7本も打たれたこともありました。まだまだインチキな時代ですね(笑)
東京ドームの試合では、僕のスピードガンが一番早く、次第にプロのスカウトにも注目されるようになりました。
ある日「タイガースファン」と公言すると翌日大きくデイリーに載ったのですが、最終的にロッテを逆指名しドラフト2位で入団しました。

---------千葉ロッテ時代は?
竹清さん:
1年目開幕ローテーションに入っていました。デビュー戦は大阪ドームでしたね。
4年間中継ぎをしていましたが、先発陣が故障故障な時期があり・・そしたら中継ぎに先発が回ってきたんです。
初先発がダイエー戦。当時のダイエーは城島、小久保さん、松永さん・・、その強敵ダイエーを6回完封しました(笑)
でも先発は調整が大変でしたし、僕は中継ぎが好きでしたね。
6年在籍し最後の2年は右肩のケガもあり実質NPBでは4年間お世話になりました。

---------千葉ロッテ引退後は?
竹清さん:
引退後リハビリをしながら一般企業に勤め草野球も趣味でしていました。
また投げられるかなと肩の調子も良くなって来た、ちょうど引退から4年後の32歳の時ですね。
龍谷大平安硬式野球部応援サイト お世話になったロッテ球団と提携する中国リーグ、中国ホープスターズにコーチとしての話があり、また野球に携われるチャンスだと思い海を渡りました。
でも実際行くと向こうは選手を求めていたようで・・(笑)4年のブランクはありましたが、そこそこ投げることが出来たので結局選手としてプレーする事に。
中国はシーズンも短く4~6月の3カ月間、シーズン終了後には契約満了で日本に戻りましたね。
帰国し直ぐに、知人から今度は台湾リーグからコーチ兼選手の話があり、今度は台湾へ、同年7月に台湾に渡りました。
8月~10月の三か月間在籍しましたが、チーム事情や自分の希望もあり契約満了後に帰国しました。

---------野球人生を色々教えて頂き有難う御座いました!話が変わりますが、龍谷大平安ボールパークは行かれましたか!?
竹清さん:
まだ行ったことはありません。
京都に帰っていないこともあるのですが、見には行きたいですね。
でもどっちかと言うと亀岡でまた野球をやりたいです。
僕がプロの時に寄贈したグランド整備カーがまだ使われているみたいで。
ボールパークではなく亀岡に残されているみたいで。
軟式が使用しているようですが、十数年も前の物がまだ使われていること、やっぱり嬉しいです。

-------------野球にまた携わりたいですか!
竹清さん:

【写真クリック拡大】
もちろんです。次は高校野球の指導者として。元プロ選手が指導者としてやれる為の資格も取りました。
僕はプロも経験しましたし、指導者は立派な技術職だと思っています。
僕の経験した事、そして技術的な事を一人でも多くの子達に伝えて行ければ嬉しいです。
実はプロ時代も含め甲子園では今まで投げた事も行った事も無いんですよ(笑)
次は指導者として・・その時の準備は出来ています。

---------やはり母校を教える事が夢ですか!?
竹清さん:
平安の監督は自信がありません(笑)
今の原田さん(第27代原田英彦監督)以上の強いチームを作れる自信がありませんね。
京都で、平安のライバルとして(笑)やれるチームであればと思っています。

------未来の京都大会、ベスト8のチームが全て平安OBが監督だったら盛り上がりますね!
それでは日々厳しい練習に耐え、夢に向かって頑張る平安球児へメッセージをお願いします!
竹清さん:
龍谷大平安硬式野球部応援サイト 今の子逹は本当に恵まれていて羨ましいですね。
球場、そして原田監督は社会人でも選手として8年連続で都市対校にも出られています。 その実績あるトップクラスの指導者からしっかり技術指導を受け野球を教われる。
それでいて全国優勝まで実現が出来たのですから。
僕は技術的な指導は受けていません。投手の本を数冊渡され読んだ位でしたから(笑)
「監督から教わったことの120%のことをすれば100%上でやれるし結果は出る。プロを目指すことも全く同じ。足りなかったモノは卒業後次のステージで補えばいい」
これを心がければ良い結果は必ず出ます。

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■取材日記
「選抜優勝しましたしね・・今の後輩は僕より上のレベルの子逹ばかり」。
今の平安球児の活躍を認めながらも平安、社会人、日本プロ、中国プロ、台湾プロと平安野球部OBとして唯一の野球道を経験された竹清さんの言葉には説得力がありました。
「平安野球部をもっともっと盛り上げたい」そんな趣旨をお話しさせて頂き今回の取材にも直ぐにご快諾下さいました。
「ダイエットしておきます!」~竹清さん。
現在はビジネスフィールドで活躍するもその心には指導者として野球にまた携わりたいと言う平安愛、決してフェードアウトしない野球の心を感じました。
「今は草野球の監督をしています!たまに投げてますよ。130キロ出ます。明日も朝早いんですよ(笑)」
まだまだ野球を忘れない、ALL平安の一人として夢を追い続ける竹清さん、貴重なお時間、本当に有難う御座いました!!
我々も龍谷大平安硬式野球部サポーターとしてずっとずっと選手に負けない位に応援して行きます!!
「大切なことはプロにいっても社会に出ても先輩には勿論、どんな時であれ挨拶は大切です。成功する一番大切な基本的な事。」・・疎かにすると成功しません。
「挨拶の大切さ」取材中よく出されていた事が印象的でした。
取材班の印象として、竹清さん世代の平安、試合内容などを知る人は非常に少ないなと感じました。いつの時代も平安は京都の高校野球界のリーダーであるべきですね。
一ファンとして感じました~。(ZERO)

竹清剛治さんへ応援メッセージ(ご本人に直接届きます!)
info@heian-baseball-club.net

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Produce&Casting&Photo:ZERO
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photo advice:ryuheian
advice:松井浩さん
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東京都渋谷区渋谷2-10-15 B1F
http://ameblo.jp/bishou/
取材日2014年7月5日(土)


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