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「豪腕」川口知哉


龍谷大平安硬式野球部応援サイト ◆川口知哉(Tomoya Kawaguchi)
平安高→オリックス→京都アストドリームスコーチ
1979年8月25日京都府城陽市生。
小学校時代は寺田グレート、中学時代はボーイズリーグ京都宇治ペガサス、そして平安高に入学。
平安では1年夏からエース。高3ではエースで4番でキャプテンと名門平安で一人三役をこなす。
1年の夏の京都予選では高校ナンバーワンと言われた斉藤和巳(元福岡ソフトバンク/2003年の球界20勝投手)擁する南京都に投げ負け、その斉藤にはスリーランホームランも打たれ2-5、8年ぶりの初戦敗退。熱狂的な平安ファンが監督、平安バスを取り囲む騒ぎも起きた。
2年の夏は春季近畿大会26年ぶり7度目の優勝を掲げ夏は期待されたが、京都大会準々決勝0-3で京都西に敗退。
この年の秋季近畿大会では初戦滋賀の比叡山を破りベスト8入りをし翌年の選抜に可能性を秘める。
そして3年、平安のキャプテン・エース・4番として1997年春夏連続甲子園出場。夏にはチームを準優勝に導いた。
「西のドクターK」の異名をとり井川慶、能見篤史とともに「高校生左腕三羽ガラス」と注目された。
甲子園での活躍は米大リーグ、シアトルマリナーズなど国境を越えても注目を浴び、その強気な発言・姿勢は当時「ビッグマウス」と話題になり甲子園に歴史を残した。
誰もが感じた「高校野球は投手力」。甲子園では多くのファンを魅了し投打に素晴らしいチームだった。
この年のドラフト会議では大学生高橋由伸(慶応大)と川上憲伸(明治大)、高校生川口知哉(平安高)らが注目を集め争奪戦が繰り広げられた。
川口はオリックス、近鉄、ヤクルト、横浜の4球団から1位指名を受け抽選でオリックスに入団。
入団後はコーチに恵まれず、ピッチングフォームの改造を幾度と迫られた。
プロ1軍では9試合に登板して0勝1敗。
またウェスタンリーグでは1イニング64球の最多投球、1試合6暴投、シーズン14暴投、1試合15四死球、7者連続与四球など数多くの不名誉な日本記録を残したが今となってはこれも「らしさ」。
かつての夏のエース、甲子園での「怪物川口」を彷彿する事なく戦力外を受ける。その後トライアウトに参加するも2004年引退。
トライアウトで戦う川口の姿はこの年の「プロ野球戦力外通告クビを宣告された男達」(TBS系列)で放送された。

現在は「高校野球が人をひきつけるのはうまい下手ではないでしょ?お客さんに「伝わるモノ」があるからですよね。見てて『応援してあげな』という気持ちにさせる魅力。それははつらつとした情熱だと思うんです。平安高校で培った礼儀とともに、そんなことを教えて行きたい」(スポーツ報知)
熱い意気込みと共に女子プロ野球「京都アストドリームス」のコーチに就任した。
低迷中の平安を復活させた原田平安の立役者である。
兵庫県西宮市の阪神甲子園球場 外周16号門横にある「甲子園歴史館」には甲子園で活躍した川口の平安ユニフォームが飾られている。
~甲子園歴史館~ 龍谷大平安硬式野球部応援掲示板(外部リンク)

▼プレイバック(79回大会決勝)▼

1997/8/21  決勝  vs 智弁和歌山(和歌山代表)
TEAM 1 2 3 4 5 6 7 8 9 H E
智弁和歌山 0 0 1 1 0 0 1 2 1 6 9 0
平 安 0 0 0 0 3 0 0 0 0 3 6 0
智弁和歌山:藤谷、清水-中谷
平安:川口-山田
打数 安打 打点 二塁打 三塁打 本塁打 三振 四死球 犠打 残塁 失策
智弁和歌山 30 9 6 1 0 0 4 5 7 9 0
平 安 29 6 3 1 0 0 4 3 3 5 0
智弁和歌山 平 安
3豊田 7奥井
7鵜瀬 4村岡
8喜多 3辻本
6清水 1川口
2中谷 6楠本
4木戸 5奥原
9倉谷 9田中
5中山 2山田
1藤谷 8宮田芳
采配:高嶋仁 采配:原田英彦

-戦評-
この一戦に勝てば実に41年ぶり4度目の全国制覇が期待されていた。
平安は5回、宮田芳のスクイズの後、奥井が三遊間への2点適時打で続き、一時は逆転。
ファンの頭には41年前が走馬灯のように駆け巡りおおよそ半世紀ぶり4度目の全国制覇が誰もによぎった。
しかし川口は力尽き、非力といわれた平安打線は最後まで粘りを見せた。
川口の力投は立派だった。連投の疲れで、立ち上がりから球が浮いた。直球で要所をしのいだが毎回のように走者を背負う投球が続いた。
準決勝まで投げた球数は663球、決勝は157球。終盤の失点は責められない。
あと一歩で深紅の大優勝旗を逃したが見事平安復活。
「敗れ去りとはいえ、平安のエース川口は紛れもない夏のエース、甲子園のエースでした!!」
実況のABC武周雄アナウンサーが試合終了と同時に残したこの名言は何年経とうが頭に焼き付き、川口は平安の新しい伝統を築き上げた。
決勝までの道のり、クジ運は恵まれていなかった。
スラッガー石原慶幸、秋田祥孝擁する県岐商を撃破、藤川球児を擁する高知商業を完封、ノーヒットノーラン宣言をした好投手伊藤幸広擁する浜松工業戦を守り抜き、準々決勝徳島商業戦は延長10回投手戦を制し、準決勝好投手佐藤崇明擁する前橋工業を完封。次々と好投手、名門対決を撃破して来た。
まさに気力と実力で勝ち取った準優勝。
エース川口、スラッガー辻本、長打のある切込み隊長奥井(決勝戦7回裏の最終打席ではホームランが出れば夏の甲子園史上4人目となるサイクル安打が期待された)と投打にバランスがとれた最強平安であった。
決勝までの5試合46イニングでの被安打は僅か22、失点7、四死球11、奪三振47。
常に「全試合三振10個が最低目標」と掲げこの大会で奪った三振は6試合で合計51個。
また大会を通じて許した連打は僅か3。6試合を全て1人で完投。その球数実に820球を一人で投げ抜いた。
夏の甲子園を全試合一人で投げ抜いたのは1992年の優勝投手森尾和貴(西日本短大付)以来。
連日各スポーツ誌トップを大きく飾り、79回大会を席巻した夏の大エースであった。
この年以降、川口に憧れ平安へ入学する球児が増えこの現象は今も続く。
平安歴代ナンバーワン左腕と言われている。

~エピソード①~
1997年夏の甲子園を最も沸かせた選手は、間違いなく川口だった。
実力もさることながら、試合後のインタビューで「次の試合は完全試合を狙います」と発言するなど、その大胆な物言いは良くも悪くも日本中の注目を集めた。
高校卒業後は当時のオリックス・ブルーウェーブに4球団による競合の末、ドラフト1位で入団したが、プロでは1勝もあげられず、2004年に自由契約。
悪い意味で「ビッグマウス」の印象だけが強く残り、現在でもビッグマウスの新人が入ってくると「ああ、川口の再来か」と連想するプロ野球ファンもいるだろう。
この川口だが2009年に発足した女子プロ野球チーム「京都アストドリームズ」の投手コーチとして野球界に“復帰”した。「女子で140km/hを投げる投手を育てて、男子のプロをキリキリ舞いさせる」ことが今の夢だと語っており、真摯に野球に向き合う姿を見せている。

~エピソード②~
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はるかなる甲子園
栗山英樹著
栗山英樹さんの書籍「はるかなる甲子園」の中では貴重な3年間の平安人生を振り返っている。
現役平安球児にとっても非常に勇気が出る彼らしい平安への思い、野球への思いが感じられる。
第79回大会準優勝から10年超経った今、当時を振り返って・・・
『普通に投げていれば打たれないと思っていました。甲子園も当時の僕からしたら出場して当然の場所。僕の為にある、ぐらいの感覚でいました。』
プロ野球を引退し一度は野球から離れたが・・・
『プロを辞めてから3年間野球から離れていたんですけど、中学生を教えに行った時にやっぱり自分は本当に野球が好きなんだなと実感しました。教えていても凄く楽しいですしどうしても野球をしたいという思いがありました。』
女子プロ野球リーグ京都アストドリームスのコーチとして・・・
『選手たちは僕が甲子園で準優勝していることもプロで挫折していることも知っている。
その中で経験したことを伝えているので真剣に話を聞いてくれている。挫折や苦労の中で悩み、考えてきたことが少しでも力になればいい。』
甲子園とは・・・
『そうですね、やっぱり甲子園があってこその僕だと思います。甲子園と言う舞台があったから全国で活躍することが出来た。また野球をやって行く上でも甲子園と言う舞台がなかったらそこまでの人生にはなっていなかったと思います。今までいきてきた人生の中で、全てのきっかけに「甲子園」があるんです。』
野球人にとってやはり甲子園は“原点”だと栗山氏は語っている。
高校野球のそばにいられた夏、みんな本当にありがとう!と締めくくっている。

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やはり甲子園は特別な場所、
「100回の練習試合より甲子園での1試合の方が野球以外でも成長出来る」
清原和博氏もかつてテレビで語っていた。
今後の人生でも大きな自信と盾になる大舞台だ。
今の平安球児達も念願の平安の門を開けたなら、平安野球部生活の2年半をよりストイックなり、正々堂々と胸のHEIANをプライドに甲子園、そして第二の川口知哉を目指して欲しい。
最後に川口を振り返り、「強気」「強心」「自信」「プライド」この4つが今の平安球児に比べ一枚も二枚もずば抜けたホルダーであったなと感じる。